現代のジャーマン・コントラバス弓の3大メーカーと言えば、
・H.R.プレッチナー H.R.Pfretzschner
・ギュンター・ホイヤー Günter Hoyer
・ベルント/ミヒャエル・デーリング Bernd/Michael Dölling
でしょうか。
戦前でしたら、
・ヘルマン・リヒャルト・プレッチナー(1857-1921) H.R.Pfretzschner
・アルベルト・ニュルンベルガー(1854-1931) Albert Nürnberger
が有名です。
なかでもプレッチナーは、生産数的にも知名度的にも抜きんでています。今回は、プレッチナーについて書いてみたいと思います。
§初代ヘルマン・リヒャルト・プレッチナーHermann Richard Pfretzschner(1857-1921)
一般的には”初代プレッチナー”と呼ばれるヘルマン・リヒャルト・プレッチナーHermann Richard Pfretzschner(1857-1921)は、1700年代から楽器・弓作りをしていたプレッチナー家の5代目として1857年に生まれました。場所はプロイセン王国ザクセン州マルクノイキルヒェン(現ドイツ)、父カール・リヒャルト・プレッチナー(1832-1893)は弓職人、母はデーリング家出身のカロリーネです。彼は幼いころからバイオリン演奏を習い始め、周囲に才能を感じさせました。父親からは弓作りの基本を教わりました。
しかし、それまでプレッチナー家の弓は単純作業的に作られたもので、レベルの高いものではありませんでした。バイオリンの腕に長けたヘルマン・リヒャルトは、より高レベルの弓を求めたのでしょう。1872年彼はパリへ渡り、19世紀を代表する楽器製作家J.B.ヴィヨーム(1798-1875)の工房に応募しました。まだ15歳だった彼ですが、老練の巨匠ヴィヨームに見出され、修行が始まりました。しかしヴィヨームはその後すぐに亡くなったため、同工房に在籍していた弓の名工フランソワ・ニコラ・ヴォワラン(1833-1885)に師事しました。
1880年にマルクノイキルヒェンに帰郷したヘルマン・リヒャルトは、シュッツェン通り569の父親の工房を現代的なフレンチ・スタイルのアトリエに改装し、新たに”H.R.PFRETZSCHNER”工房を開きました。そのためH.R.プレッチナーの創業は1880年になっています。
彼の弓は、優雅で洗練されたフォルム、重量の分布と重心の位置に細心の注意が払われており、演奏家の幅広い音楽表現に応える優れた弓として評判になりました。
1901年にはザクセン王アルベルトから宮廷御用達に任命されました。この証として、1901年以降のH.R.プレッチナーの弓には、ザクセン王室の紋章が弓の毛箱(フロッシュ)に焼き印されています。
彼と妻アウグステは3人の子どもをもうけました。長男はリヒャルト・ヘルマン・プレッチナーRichard Hermann Pfretzschner(1878-1958)、次男はベルトルト・ヴァルター・プレッチナーBerthold Walter Pfretzschner(1889-1983)、長女はベルタ・ヘレネ・プレッチナーBerta Helene Pfretzschnerです。長男と次男は2代目として家業を継ぎました。
1911年には会社はすでに大規模となっており、ドレスデンにも店舗を開きました。
1921年に”初代プレッチナー”ことヘルマン・リヒャルトが亡くなりました。
§2代目-3代目の時代
長男リヒャルト・ヘルマンは2代目として家業を継ぎ、2人の子どもをもうけました。長女ヨハンナ・プレッチナーJohanna Pfretzschnerと長男テオドア・ヘルマン・プレッチナーTheodor Hermann Pfretzschner(1915-1979)です。このテオドアは後に独立し”T.H.Pfretzschner”のスタンプの弓を作りました。テオドアはT.P.と書かれた独自の紋章を毛箱に焼き入れました。テオドアは子孫を持たなかったこともあり、T.H.Pfretzschnerは一代で終わりました。
次男ベルトルト・ヴァルターも工房を継ぎ、兄と同じく2代目として弓を作りました。1911年にはザクセン王国ヴァイマール大公からザクセン宮廷御用達の称号を与えられました。子どもは2人で、長男でのちに3代目となるホルスト・リヒャルト・プレッチナーHorst Richard Pfretzschner(1914-1989)と長女エルフリーデ・プレッチナーElfriede Pfretzschnerです。
§第二次世界大戦と東西分裂、3-4代目
戦後、マルクノイキルヒェンは東ドイツ(GDR)となりました。東ドイツは社会主義です。単独の弓職人たちは”労働者”として保護されていた一方、従業員を雇用していたプレッチナー工房は資本家企業とみなされてしまい、莫大な税金を請求されました。3代目ホルスト・リヒャルトは会社の独立を放棄せざるを得ませんでした。会社は国有化され、1972年にVEBムジマ(VEB Musima)、1985年にVEBシンフォニア(VEB Sinfonia)に組み込まれました。
国有化されてからはほとんどが輸出用として生産され、世界中にH.R.PFRETZSCHNERの弓が販売されました。一方で、それまでのような国内の顧客基盤に根差した独創的な弓作りからは変化しました。
ホルスト・リヒャルトには子どもが3人おり、のちに4代目になる長男ハインツ・ホルスト・プレッチナーHeinz Horst Pfretzschner(1941-)、長女アガテ・プレッチナーAgathe Pfretzschner(1943-)、次男ヘルマン・リヒャルト・プレッチナーHerman Richard Pfretzschner(1947-)です。彼らもまた家業を継ぐことになりました。
§分離
4代目ハインツ・ホルストは息子で5代目のルネ・ハインツ・プレッチナーRené Heinz Pfretzschnerとともにマルクノイキルヒェンに残り、国有化された会社で働きました。彼らの弓には、H.PFRETZSCHNER, H.PFRETZSCHENER MARKNEUKIRCHENのスタンプが押されています。
一方で、4代目ハインツ・ホルストの弟ヘルマン・リヒャルトは東ドイツを離れ、バイエルン州バート・エンドルフBad Endorfに工房を開きました。
§現在
現在、プレッチナーPFRETZSCHNERと名乗る弓メーカーは3つあります。便宜上、地名で分けます。
・マルクノイキルヒェンのプレッチナー
・バート・エンドルフのプレッチナー
・ミュンスターのプレッチナー
§それぞれの特徴
・ザクセン州マルクノイキルヒェンのプレッチナーは、5代目ルネ・ハインツ氏が継いでいます。現在は受注生産のみを行っているとのことです。私が訪れたときのコントラバス弓の在庫も非常に限られていました。スタンプはH.PFRETZSCHNER MARKNEUKIRCHEN
・バイエルン州バート・エンドルフのヘルマン・リヒャルト・プレッチナー氏は精力的に弓作りを行っています。2000年ごろには、120周年記念モデルとして金属部分に彫刻を施した弓を作りました。少し前に私のドイツの教授がクラスの生徒達のために4本ほど注文してくれましたが、どれも高い水準でした。個人的な感想ですが、近年に関してはこちらのプレッチナーが一番安定しているように感じます。スタンプはH.R.PFRETZSCHNER®、もしくはH.R.PFRETSCHNER、レトロなデザインの製作証明書が添付されていることもあります。
120周年記念モデル、®あり
最近のもの、®なし
・ノルトライン=ヴェストファーレン州ミュンスターのプレッチナー弓は、ヨハネス・ミーシング氏がプレッチナー・スタイルで製作しています。彼はミッテンヴァルトのヴァイオリン製作学校のあと、ベルギーの名匠ピエール・ギヨームのもとで修業しました。
§プレミアの弓
初代プレッチナーから2代目までのプレッチナーは、コントラバス・ジャーマン弓の最高峰とされています。私も借りて弾いたことがありますが、まるで自分ではなく弓自身が弾いているのではないか?という感覚になるような、素晴らしい弓でした。
この時代は、毛箱と弓先の高さがほとんど同じのカルマン・モデルや弓先が流線形のもの、棹がとても長いものなど、さまざまなモデルが試みられていました。戦後の統一された規格のプレッチナーに比べると、とても個性的です。
ただ非常に高価ですし、良い状態のものを見つけるのは極めて困難です。私もいつかは手に入れたいと夢見ていますが……。
以上、私がルネ・ハインツ・プレッチナー氏から聞いたことやプレッチナーのHPにある家系図などを参考に書きましたが、内容の完全な正確性については、保証いたしかねます。
文章と写真は転載不可とさせていただきます。
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